
監修

代表取締役CEO
田瀬 和夫
1967年福岡県福岡市⽣まれ。東京大学工学部原子力工学科卒。
1992年外務省に入省。2001年より2年間、緒方貞子氏の補佐官として「人間の安全保障委員会」事務局勤務。
その後、国際連合事務局、デロイトトーマツコンサルティングの執⾏役員を務め、2017年9⽉に独⽴しSDGパートナーズを設⽴。
企業のサステナビリティ方針全体の策定と実施⽀援、SDGsの実装⽀援、ESGと情報開⽰⽀援、⾃治体と中⼩企業へのSDGs戦略⽴案・実施⽀援などをリードする。
また、2019年12⽉には事業会社であるSDGインパクツを設⽴し、実際に社会に持続的インパクトをもたらす事業へも参入。
さらに、2021年9⽉にはニューヨークのサステナブル・カフェ「Think Coffee」の⽇本誘致のためThink Coffee Japan株式会社を設⽴し、現在上記3社の代表取締役。私⽣活においては9,000人以上のメンバーを擁する「国連フォーラム」の共同代表理事
英国現代奴隷法「2025年ガイダンス」実務対応:声明(ステートメント)の「独自性」と「実効性」を示すアプローチ〈前半〉
本記事では人権デュー・ディリジェンス実務担当者が具体的に何をすべきかを、重要な変化の背景とともに、順を追って丁寧に解説します。
前半ではMSAの概要と具体的な解釈について解説しました。後半では日本企業に求められる対応を説明します。
4. 日本企業が直ちに実施すべき「ギャップ分析」
この新しい「物差し」に対応するため、対象となる日本企業の実務担当者は、以下の3つのステップで現状のギャップ分析を行うことを推奨します。
ステップ1:適用対象の再確認(法務・コンプライアンス部門)
自社グループが「全世界での連結売上高3,600万ポンド以上」に該当するかを再確認
英国子会社・支店の有無だけでなく、「英国での事業(carries on a business)」という広範な定義に、自社の商流(例:英国への継続的な製品輸出、英国企業との直接契約)が該当しないか、法務部門と連携して再評価
ステップ2:現行声明の「Level 1 / Level 2」ギャップ分析(ESG・調達部門)
本記事の「3. 6分野別」の解説をチェックリストとして使用します。
自社の最新の声明が、6分野のそれぞれにおいて、Level 1(新・最低基準)を満たしているかを確認
特に、「リスクの否定」や「マッピングの限界」、「研修の具体性」といった項目で、抽象的な記述に留まっていないかを確認
次に、Level 2の項目(定量的なKPI、救済措置、ステークホルダーとの協働)がどれだけ不足しているかを評価
ステップ3:グローバルDDプロセスへの統合(経営企画・ESG部門)
MSA対応を、英国向けの「独立した報告書作成業務」として扱っていませんか?
新しいガイダンスは、MSA対応を、企業全体のESGおよび人権プログラムに統合することを明確に推奨しています。
特に、EUで導入が進む「企業持続可能性デュー・ディリジェンス指令(CSDDD)」や、国連の「ビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)」 など、グローバルな人権DDの枠組みは共通しています。
MSA用、CSDDD用、と個別にプロセスを構築するのではなく、全社的な単一の人権DD基盤を構築し、そこから各国・地域の要求に応じて報告書(声明)をアウトプットする体制に移行することが、最も効率的かつ堅牢なアプローチです。
5. 具体事例:新ガイダンスの「精神」を先取りする日本企業
2025年の新ガイダンス(Level 1/2)は、2025年3月以降に公表されたものです。したがって、多くの日本企業が現在公表している2024年度版や2025年度版の声明は、この新基準の前に作成されたものが多いのが実情です。
しかし、一部の日本企業は、この新ガイダンスが求める「法の精神」 を先取りするかのように、単なる方針の宣言を超え、具体的なDDプロセスや救済・是正への言及、ステークホルダーとの協働について、詳細な開示をすでに行っています。
これらの事例は、Level 2が求める「実効性」や「独自性」を示す上で、重要なベンチマークとなります。
事例1:日本郵船(NYK)
開示内容: 2024/25年度の声明(10回目)において、FY2024に「現代奴隷のリスクが潜在的に高い可能性のある一部の事業プロジェクトにおいて人権影響評価を実施」したと明記。
なぜ先進的か: 「評価」に留まらず、「必要と判断された適切な是正措置を講じた」と、新ガイダンスがLevel 2で重視する「救済」にあたる具体的な行動の実行にまで踏み込んで開示しています。
事例2:株式会社良品計画
開示内容: 2024年度の声明で、生産パートナー工場のリスク(高リスク国に位置していること)を率直に認めた上で、具体的な対応を記載。
なぜ先進的か:
外部機関との協働: 2016年からILO(国際労働機関)とIFC(国際金融公社)の共同イニシアチブ「ベター・ワークプログラム」に参加し、工場の労働基準の評価に活用している。これはLevel 2が求める「国際基準の参照」の実践です。
「労働者の声」の確保: 移住労働者に焦点を当て、「JP-MIRAI Assist」(移住労働者向けの相談・救済パイロットプロジェクト)に参加したことを開示。これは、Level 2が求める「労働者の声」と「救済メカニズム」 の具体的な構築にあたります。
事例3:ANAホールディングス
開示内容: 2024年10月までの活動を反映した声明で、2024年6月~7月に「ステークホルダー・エンゲージメント・プログラム(人権DDワークショップ)」に参加し、NGO/NPOや専門家と議論したことを開示。
なぜ先進的か: 社内の取り組みに留まらず、新ガイダンスがLevel 2で推奨するステークホルダー(NGOなど)との協働を具体的に実践しています。さらに、国際会議の場で自社の「救済措置の実施」について登壇・発表した ことも開示しており、高い透明性を示しています。
6. 結論:真のリスクと、求められるスタンスの転換
最後に、実務担当者が経営層に報告する際にも重要となる「リスク」の本質について再確認します。
6-1. 法的な罰則 vs 商業的な不利益
MSA第54条(声明の公表義務)に違反した場合、つまり声明を公表しなかった場合、どうなるのでしょうか。
法的な罰則(現状):
驚くべきことに、声明の不提出や質の低い声明の提出に対する直接的な罰金は、現行法上(2025年11月現在)存在しません。
法律が定める唯一の対抗手段は、英国政府が企業に提出を命じる「差止命令」を裁判所に求めることができる、というものです。しかし、この権限はMSA制定以来、一度も行使されたことがありません 。
※罰則強化の法改正は英国議会で長年議論されていますが、2025年現在はガイダンスの強化が先行している状況真のリスク(商業的ペナルティ):
では、なぜ企業は対応する必要があるのでしょうか。リスクは法的な罰金ではなく、はるかに深刻な「商業的・レピュテーション的な不利益」として現れます。政府調達からの除外: 2023年に成立した英国の新しい「調達法(Procurement Act 2023)」 は、サプライチェーンで人権侵害(現代奴隷)の証拠がある企業を、政府の公共調達から除外する広範な権限を当局に与えています。Level 1基準すら満たせない声明は、入札失格の明確な根拠となり得ます。
投資家からの圧力: 2022年のFRC(財務報告評議会)のレポートが示すように、機関投資家は企業の声明の「質」を厳しく監視しています。「表面的」な声明を公表し続ける企業は、投資家エンゲージメントや株主提案の対象となります。
企業間取引の停止: 自社が取引先(特に英国や欧州のグローバル企業)から人権DDを受ける際、質の低い声明は「リスク管理能力の欠如」と見なされ、サプライチェーンから除外される(取引を停止される)リスクに直結します。
6-2. 求められるスタンスの転換:「広報(PR)」から「実証(EVIDENCE)」へ
2025年ガイダンスは、企業のスタンス(姿勢)の根本的な転換を迫るものです。
(旧)回避のスタンス: 「当社にリスクはありません」
(新)責任のスタンス: 「責任ある組織とは、リスクを認め、そのリスクを特定・軽減するために積極的な措置を講じ、被害を是正(救済)し、進捗を追跡して継続的に改善していることを公に示すことができる組織である」
現代奴隷法への対応は、「リスクはありません」とアピールする「広報(PR)」活動ではありません。自社のサプライチェーンに潜むリスクを直視し、それを管理・改善するプロセスを、具体的な「実証(EVIDENCE)」(KPI、事例、改善計画)をもって、ステークホルダーに誠実に報告する経営活動そのものへと移行したのです。